いのちのちから 
~光りに包まれた人たち~
 
  結果報告    
     
   集客100人と意気込んでましたが、結果は惨敗。言い訳ですが当日は周辺各地でイベントがあり、前日の雨から天気も回復し、みなさんお出かけになられたようで…。それでも来てくれた人達はみなさん感動してくれたみたいでひと安心。中でも1人(実は僕の知っている人で、普段はクールな感じの女性)はかなりの衝撃を受けたみたいで、きっと影響を与えたのではないかと…。

 常々思っているのだけど、100人の「よかった」よりも、1人の人生を変えるような(よい)影響を与えることができたら素晴らしいし、すごいなと。それが達成できた(?)と思われるので成功としよう。そしてその日各地域でイベントが行われる中で、最も少人数の企画であったけれど、最も記憶に残る(影響を及ぼした)企画(イベント)であったということに勝手ながらしたいと思う。


                         
                        
 
   数々の失敗をしながらもなんとか終えた今回の企画。午前の部では外でチラシ配りをしてたら、時間を間違えて、戻ったら既に映画観賞が終わっており、終わりのコメントが述べられなかった。午後の部ではちゃんと終わりのコメントを述べようと思い、終了10分前に部屋に戻ったのだが、何とか終わりそうだと思ったら、ウルウルしてきて、しゃべったら泣いてしまいそうだと思い、急遽コメント内容を変えて、何でもなさそうな事をさっと話した。

 ホントは下のような内容を話そうと思ったのです。


                         
                         
 
   今回の企画は本当は24年の秋にしようとしたもの。その時のタイトルは「いのちのちから~今つたえたいこと」だった。これを企画したのがちょうど24年の初夏のころだったと思う。ちょうどそのころ高校生のいじめによる自殺が社会の話題となり、ニュースなどで大きく報道されていた。


 今でも、時々中学生・高校生の自殺が報道されたりするけれど、当時(今でもそうなのだけど)、なんだかすごくもったいないと思った。まだ何も知らないのに、何も経験していないのに、何も楽しんでいないのに、もっと命を大切にしてほしいと思った。もちろんいじめられる苦しみも分かるけれど、とにかくもったいないと思い、今回の企画を考えタイトルを「いのちのちから~今つたえたいこと」とした。そんな訳で「いのちのちから」という重いタイトルとなってしまった。


 ところが企画を立てたものの、諸々の事情が重なり、実施が延期となり、いざ再び行おうと思った時に、タイトルをどうしようと思った時に、「いのちのちから」はそのままでいいけれども、「~今つたえたいこと~」はどうしたものかと考えた。もちろん当時の想いが消えたわけではない。今も若い人たちの自殺を耳にするたびにもったいないと思うし、日本のこの自殺の多さは何とかならないかと思う。数ヶ月前に日本人の若年世代の死因の1位は自殺であり、若年世代の自殺率は世界一と知り、暗い気持ちになった。けれども「今つたえたいこと」というサブタイトルを何か他のものにしたいと思った。


 今回の映画「天から見れば」の南正文さん、ちぎり絵の田坂暁子さん2人に共通するものは一般に「障害者」といわれること。でも両者はそのことをハンディと思っているわけではない。映画の中で南さんの今幸せであることがよくわかるし、田坂さんの絵からは、つらさなんか全く伝わってこない。伝わって来るのは優しさや喜び。そしてまた両者に共通するのはその(障害を乗り越えたという)「強さ」。僕にとっては両者は天に微笑まれた人に思えた。そこで「光りに包まれた人たち」とした。


 社会福祉士という資格を10年前に取得したのだけれど、障害者福祉論を勉強していた時思ったことがある。それは「みんな障害者じゃないか」ということ。障害者とはいわゆる表にその障害が見て取れる人、身体障害とか知的障害とか精神障害と思われがちだが(最近では内部障害として臓器等の障害を持つ人も言われてきたが…)、ホントは表に現れるか現れないか、あるいはその程度の大なり小なりのことであり、みんな障害を持って生まれてきているのではないかと…。そしてもしそれがなければ人間に生まれてくる必要もないのではないかとも思うのだ。僕たちは誰もが必要があって生まれてきたのだから。すべての人に生まれてきた意味はあるのだから。(それが前回の映画「1/4の奇跡~本当のことだから」で言われている。)


 近頃は高次機能障害(注意欠陥多動性…)とか以前では分からなかった事が科学により、障害として分類されてきているけれど、それ以前に人間だれでもコンプレックスというものを持っている。それがすべての人に与えられた障害ではないかと思うのだ。一般に言われる障害者にとっては、障害そのものがコンプレックスなのだろうけれど、一般に普通の人といわれる人にも(いくつかの)コンプレックスを持っており、はたから見れば「その程度のことで…」と思われることにとっても、本人にとってはそれが大きな大きな壁となり、目の前が真っ暗となることもある。そして自分だけなぜ?って思ってしまう。


 けれどもそのコンプレックスを乗り越えた時、それを受け入れられた時、目の前が明るくなる。そこには光りの世界が待ったいる。僕にはそれが「幸せ」のひとつではないかと思う。天が「よく乗り越えた!」と与えてくれた御褒美だ。それは南正文さんあるいはその師匠の順教尼が映画の中で「また両腕がなくても構わない。」と言っていることからも、幸せとは何かを示唆していると思う。


 そして田坂暁子さん。生まれた時から脳性麻痺で動くのは左手のみ。その左手も常に震戦(ふるえ)がある。その左手と口と鼻を使い、ちぎり絵を作り続けている。ひとつの作品に何週間も何カ月もかけ作りあげていく。その制作風景を写真でしか見たことがないけれど、その写真を見るだけで、僕には衝撃的。なんてすごい人なのだろうと思った。そして今回の企画を田坂さんの妹さんに話にいった時、田坂さんは一度も自分の体についての愚痴をこぼしたことがない。(聞いたことがない)。いつも言う言葉は「ありがとう」という事を聞いた。ただただ恐れ入るしかない。


 振り返って僕たち自身(いわゆる健常者といわれている人々)を見てみるに、いつも愚痴と不満だらけ。自らがストレスを発生させている。障害者といわれる人達が「幸せ」という言葉をしっかりと口にし、「ありがとう」の言葉とともに、常にニコニコしているのに対して、僕たちは・・・恥ずかしい限り。これでは「幸せ」も遠のく一方では?


 先ほど出た映画「1/4の奇跡~本当のことだから」のシーンで、人々の手が描かれているペルーの古代の布が出てくる。その中心にあるのは6本指の手。そこから古代のペルーでは6本指を持った人(障害を持つ人)は、特別な人として存在価値を持っていたのではないかと推測されていた。僕たちも今障害者を保護しなければいけない立場の人としてみるのではなく、もっと同じように価値を持つ人としてみる必要があるのでは?


 ソーシャルインクルージョンあるいはインテグレーションという言葉がある。ノーマライゼーションから近頃はいろんな言葉が出てるけれど、いずれもひと言「当たり前」ということ。僕らは障害者と呼ばれる人を含め、自分自身の持つコンプレックスも含め、当たり前の社会を作っていく必要があるのでしょう。


 最後に、今気付いたのだけど、前回行った企画のタイトル「Life is beautiful ~生きるよろこびみ~つけた!」。今回は「いのちのちから~光りに包まれた人たち」と、どちらも「生きる」ということをテーマにしている。どうやら僕はそこに興味があるみたいだ。きっと前世で自殺したことがあるからなのかも…。


 生きなきゃね。どんなことがあってもこの与えられた命。大切に生きましょう!
 
     
     
    後日談として

 実は僕が映画「天から見れば」を見たのはもう1年以上前。それ以来ホームページでのコマーシャル的なものは見ていたが、映画会前も見ていなかった。だから参加者に映画の紹介をするのは1年前に見た時の印象を思い出しながらの話し。映画会が終わって2日後に初めて改めて映画を見た。そしたら記憶とのずれがある。一部「1/4の奇跡~本当のことだから」とごっちゃになっていることが分かった。あれ~「1/4」の話が「天から」の映画の話として話してしまった!まあ、仕方がない…。いい加減な男だから…。

 
 けれども改めて「天から見れば」を見てみると、今回はまさに「生きる」ということが僕の心に焼きついた。単なる障害者の映画ではなく、そこから命や「生きる」ことを学んでいく。今一番大切なテーマではないだろうか。


 南さんも田坂さんも障害を乗り越え(受け入れ)生きている。それも幸せに生きている。僕らもやはり生きなきゃ。そして幸せにならなきゃ。


 やはり障害者といわれる人も健常者といわれる人も区別はないのだ。それぞれに生きて、そして幸せになるというテーマが与えられているのだ。
 
     
   最後にこの企画を再度やろうと決め準備を始めた時、やると決めた日の3日前に南正文さんが肺炎のため亡くなられた事を知った。偶然かそれともしなさいとの声があったのか…。あまりにビックリしたけれど、同時に南さんはきっと今世のテーマを成し遂げたのだと思った。
 ご冥福をお祈りします。
 
     
 
手伝ってくれたみなさまありがとうございました。 
 
   戻る