宗教における精神性

 

 「精神性」と「宗教」という言葉は、混同して使われることもありますが、同じものではありません。政治は、宗教の制約を受けるべきではありませんが、精神的な価値観を持たずにいてはなりません。宗教(religion)の語源はラテン語の「religio」で、「特定の信仰という糸でしっかりと結びつく」という意味です。人々が集い、信仰体系を共有し、団結し、支えあうということです。一方、「精神」のそもそもの意味は、「息吹」とか「空気」にまつわるものです。私たちは誰もが、自由な精神の持ち主になれますし、自由に息をするすることができます。精神性は信仰を超越しています。精神は、私たちの心を動かし、勇気づけ、感動させてくれます。私たちの魂に元気を与えてくれるのです。

 ドアや窓を閉め、カーテンも引いて部屋を閉め切ったままにしておくと、部屋の空気はどんよりとよどんだ感じになります。何日かしてその部屋に入ると、空気がムッとしているので、ドアや窓を開けて新鮮な風を入れるでしょう。同じように長こと心が閉ざされているときには、窓を開けて、どんよりした心や代り映えがしない考え方に、もう一度新鮮な風を吹かせてくれる、急進的な化身たる預言者が必要になります。釈迦やイエス・キリスト、ガンジー、マザー・テレサ、ペルシャの神秘主義的詩人ジャラール・ウッディーン・ルーミー、中世ドイツの女性神秘家である“ビンゲンのヒルデカルト”といった人々が現れ、、閉ざされた心のモヤモヤを吹き飛ばしてくれます。もちろん、こうした預言者を待っている必要はありません。私たち自身が、自らの預言者になればいいのです。そして、自分の心の鍵を開け、思いやりや寛大さ、神の聖なる力などの新鮮な空気を、命のすみずみまで吹き込むのです。

宗教団体や宗教的な伝統には、果たすべき大切な役割があります。これらは考え方や実践における規律を教え、枠組みを示してくれます。そして、一体感や連帯感、安心感を与えてくれます。苗がまだ小さくて弱いうちは、鉢で育てたり、添え木を当てたりして守らなければなりませんし、霜や冷たい風から守るためには、苗床を囲っておく必要もあるでしょう。でも、十分強くなったら、戸外に植えかえて、しっかりと根をおろして立派な成木にできるようにしてやらなければなりません。同じように聖職者も、魂を探し求める人々にとって苗床の役割を果たしています。でも、最終的には私たち一人ひとりが自分自身の根をしっかりと張り、自分なりのやり方で神の力を見いださなくてはなりません。

 素晴しい宗教や思想、伝統がたくさんあります。私たちはこれらの存在をすべて認め、「さまざまな宗教的な伝統が、さまざまな時に、さまざまな場所で、さまざまな状況において、さまざまな人の要求に応えている」ということを受け入れるべきです。こうした寛大さ、すべてを包みこみ、受け入れる心は、精神のあるところに生れるものです。聖職者がこのような心を失ったら、それはもはや自分たちの既得権益を守るだけの宗派でしかないでしょう。

 現在、組織化された宗教はこのわなにはまっています。信者が自らの自由な精神をはぐくみ、発達させ、見いだすのを手助けすることよりも、組織を維持することのほうが重要になっているのです。聖職者が財産や評判を守ることにとらわれれば、精神性を失ってしまい、やがては精神を欠いたビジネスと同じようになります。ビジネスや政治に精神を取り戻すことが求められているように、宗教にも精神を復活させる必要があります。これはちょっと意外な話だと思われるかもしれません。というのも、どの宗教も、その存在理由はまさに、「精神を探し求め、普遍的な愛を築くこと」にあるからです。でも、現実はそうではありません。宗教はすばらしいことをたくさんしてきましたが、一方で、災いもたくさんもたらしてきました。キリスト教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒、ユダヤ教徒の間の緊張が、対立や戦争、不和の主要因担っている様子を、世界のあちこちで見ることができます。

 「それぞれの信仰は、『精神性』という一つの大きな海に流れ込んでいる川のようなものだ」ということに気づけば、宗教間の対立は終息するでしょう。名前の違ういろいろな川が、異なる宗教や異なる人々に栄養を与えているにしても、どの川も与えているのは同じ、「心に元気を取り戻す」ということです。川の間に対立はありません。では、宗教間に対立がある必要がありましょうか。神学理論や信仰体系には違いはあるかもしれませんが、精神性は同じなのです。何よりも大切なのは、この精神性です。信仰の多様性に敬意を払うことが、精神の面で何よりも求められていることなのです。


リサージェンス誌選集『つながりを取り戻す時代へ』」より「精神性を取り戻す」サティシュ・クマールより 
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