地球的慈悲に向かって

アリゾナの砂漠の片隅、メキシコとの国境近くに、
パパゴ族という音楽好きのインディアンが住んでいる。
彼らは西洋の服を着て、アドービ煉瓦の家を造り、
埃だらけのトラックで
乾いたソノーラ(メキシコ北西部)を渡る。
しかし、近代的な装いの下は昔のままである。
大声を上げない、やさしい、詩的な人々である。
もっとも強壮な男たちも、
柔らかくなめらかな昔ながらのアステカ語を
ささやくような低音で話す。
彼らはいつも笑っている。
砂漠の太陽はかれらの動きをゆっくりとした、
流れるような調子に仕立てあげた。
思慮深く映るパパゴ族の動作に比べて
われわれはあわただしく、ぎこちなく
神経質に見えることだろう。
パパゴ族は必要に応じて闘った。
北方の国境では戦闘的なアパッチ族との闘いが
しばし展開されたのである。
しかし戦争は栄光を伴わなかった。
殺人を犯した勇士はただちに戦場から退き、
16日間の複雑な儀式によって
清められるまでみんなが避けたものだ。
闘いは部族のために行わなければならない穢らわしい任務であり、
唯一の救いとなる報酬は夢であった。
充分に謙虚なふさわしい人は夢に報いられるかもしれない。
そして、夢はいつも歌とともにやってくる。
歌はパパゴ族の宝であり、
ふさわしいもののみに与えられる栄誉であった。
歌は魔術の媒介となる
自然の要素を呼ぶためのひとつの魔法である。
ただし、歌の内容は真理と美をもち、
歌も儀式にのっとって
正しい時に行われることが条件だったのである。
現在でも、良い歌を作曲して唄えるものが尊ばれる。
優秀な農業経営者でもビジネスマンでも、
同時に作家や詩人であることによって価値を認められる。
感情豊かであり、ユーモアと恥ずかしさをもち、
母の愛情を表現できて、孤独な子どもと一緒に泣くことが
できる人であることが要求される。
かれらの中に入っていくと、私は自分の不完全を憂う。
平たい顔をした頑丈な褐色のパパゴ族の男たちには力強い、
男っぽい存在感があり、
かれらといると自分が無力に思えてくるものだ。
しかし、かれらには明らかに女性的な要素と思われる
慈悲と感受性を放射する。
そのバランスを楽に保っているかれらがうらやましい。
真の個体化への鍵はこのバランスにある。
男も、自分の中の女性的要素を発見して吸収しないと
真の男性的になりえない。
この問題は個人的というより文化的なものである。
旧態依然の男性排他主義=男主義の反応や態度のワナに、
まるごと捕われている社会が多い。
私の社会もそうなら、日本もそうだ。
日本の歴史は男が支配し、綴ってきた歴史である。
しかし、その根底には、
たとえば神道などにうかがえるような、
あらゆるものに生と愛が内在するという、
本質的に女性的・直感的な認識が存在するのではないか。
日本が現在の創造的行詰まりから
脱することを願うのであれば、
母なる地球の、静かな、やさしい実りある声に
耳を傾けるべきだと思う。
『未知の贈りもの』は、地球の、永続的な
生命に充ちた存在感に対する
私の心からの賞賛のあらわれである。
ここに登場する少女と彼女の特殊なジレンマは、
われわれの惑星の問題点と危機、そして同時に
その「完全」を象徴しているように思われる。



ライアルワトソン「未知の贈りもの」(ちくま文庫)
日本語版刊行によせてより
 
 
 
 
 
 
 
   この作品「未知の贈りもの」は日本では1979年5月に刊行されたものです。
今から35年以上前に書かれたものです。
今でも十分通じる内容ではないでしょうか?
というよりも、私たちは(男たちは)この35年間一体何をしてきたのでしょう…。
そろそろ進化しませんか?
 
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